昭和40年06月01日 月次祭
誰の句でしたでしょうか、「目に青葉 山ほほとぎす 初鰹」でしたかね。「芽に青葉 山ほほとぎす 初鰹」。今日はその初鰹のお供えが、鰹のお供えがあった。私が玉串にただ今奉らせていただきましたが、榊葉のもうそれこそ生き生きとしてから、芽がわぁっとこうしとります。いわゆる、青葉、若葉のころ。それこそ、緑の、緑の風もさわやかに、そういう、暑くもなかならければ、寒くもない、いよいよ、結構な、時節のことを申しましたもんでしょうね。
目に青葉を見、すがすがしい思いをすると、口には初鰹の味わいをもって。聞こえてくる、言わば山ほととぎすの声に、心も、すがすがしゅう、ならせてもらう。私は今日、御祭典中にそういうようなことを、色々お供えされるのを見ながらですね、その句を、思いをさせていただいた。こういうようなものが、いつも暑くもなかならければ寒くもない、いつもそれこそ春の3月花の頃というようなおかげ。
何を見ても何を聞いても、何を味おうても、初鰹の味わいに、味わいが味わえると同時に、聞こえてくるものもやはり、丁度ほととぎすの声を聞くような、見るものは丁度青葉若葉を見るように、そう言う様な、おかげを頂かせて頂くそういうおかげを、頂いてくれよと仰るのが、教祖の神様。そこで私はそう言う様な、気持にならせてもろうたらよかろう、そういう信心状態にならせていただいたらよかろう、と。
そこで今晩は、そういうようなことをテーマにして、お話させて頂こうと思うて、何かヒントを頂こうと思ったんですね。そしたら神様がね、お前自身のおかげを受けておることを話せ、と仰いました。お前がおかげを受けておるということを、話せと。はぁなるほど、してみると私は、ある意味合いにおいて、何を見ても、言わば新鮮な、若葉を見るような、思い。それはある場合によっては、枯葉を眺める場合もある。
私はいつも今この枯葉の散る、あの、古葉の落ちる時期でございますから、ここで、古葉がいっぱい散らかっておる。散らかってるけれども、その古葉1枚1枚にですよりは、また新芽を、あのすがすがしい、生き生きとしたものを、見るのととまたおもむきの違った有難さを私は、あの、木の葉の1枚1枚の中から感じておる。味わいの上におきましてもです、もういつも、初鰹を食べておるような味わい。
というのはです、なるほど、山海の珍味を頂かせて頂くのでございますから、それは( ? )その、間違うとるようにあるんですけれども、夜なんか皆様ご承知のように、私どもは、麦の茶粥です。茶粥には、茶粥に丁度いいような、まあ塩っ辛い言うならば、お菜が必ず作ってある。ところがです山海の珍味を頂くのと、ひょっとするとそれよりも以上なものがです、私の心の中に、有難い、もうおいしいと言うよりも有難いなぁ、というものを感じる。おいしいと言うことよりも有難い。
おかげを頂きまして私どもがです、食べるに食なく、もうほんとに、この麦のお粥さんが、もう私は、いざ知らず、年寄りと子供だけには腹いっぱい頂かせたい、いや、そういう願いが叶うたならです、私は何を頂いても、どんなに腹を乾してもよいと言う時代があったからだと私は思うんです。私不思議なんです。「もうお父さん今日は何にもありゃあせんばい」と言われる時ほど、私は、その味わいというものがいよいよ、私の心の中にこゆくいただくことができる。ね、
聞くでもそうです。子供がやかましゅう言うておろうが・・・以前私あの、朝の御祈念の座なんか就きまして、子供たちが騒いでおると立って行って叩きたいごたるその、衝動に駆られたもんですね。もうほんとにそんな、もう立って叩きたい様な気がするんですね。ところが、だんだんこの頃おかげ頂きましてから、それが、例え聞こえてまいりましても、ありがたぁい思いがするんです。
心が進展していきよる、成長していきよる証拠だと、ね。それかちいうていつも私はいつもその、仏様のごたる、神様のごたることば言いよるかっちゅうとそうではない。もう家内じゃなかばってん今日はもう「お父さんな私を見たらしゃっちゅやかましゅう言うちから、おごらやんごと思うちゃるち」言いますもん。私今日、ちょっと今、この、皮膚病ですね、かいかいがさができとる。
あぁたお気付け頂きよるてち言わんばかりの顔ばしてから毎日おりますと、裸になってからその、体全身に付けて貰うです御神酒を。そして私がおごりまくるもんじゃけん家内が言いよります。「あなたはそげなん心がけじゃ、おかげ頂きなさらんよ」ち。(笑)それもそうたい。ところがですそういうこと言うて何言いよるか、っという気持が全然ないのです。もうそれこそ、んならほんとに、そういう中ば一つ誰でん見せたいごたるその、意味合いかいで出てくるわけなんですね。
「ねえごつ言いよんかち、俺がつは、神様のご都合、っち。お前どんが怪我したり、かさが出来たつはばちかぶるとじゃろうばってんね、俺がつは、神様のご都合じゃけん(笑)」言うようなことを、平気で言いながらです、あなたばっかりは、と言うわけですけれども、そこんところに、そうでなからなならんようなその、一つの味わいって言うものが、あるんですね。
してみると、初鰹に、言うなら青葉であり、山ほととぎす、ということに、なりゃせんでしょうか。ね、私はそういうようなね、なら私は初めからそうであったわけではない、ということ。だんだん、しかもこれがもっともっとあか抜けして、もっともっと、有難いものに、なってくるに違いはないということ。だからね、お互いが信心の稽古させていただくなら焦点はそこにおかなければいけない、ということ。ね、
例えばああして、御霊様の前に、色とりどりの、みずみずしいまでの、花のお供えがあっておる。あれ見て腹立てるっちゅうもんはおらんもんね。もう、こげなんと見たらもやもやしてくる、とはおるまいもん。どうですか。ところがです、そこまでなら、誰でもだから、いただけれる、ということ。だからそれと反対のなかにでもです、みずみずしい、言うならば、草花の、それでも見るような、思いでです、おかげを頂いていかなければならんと、そこでです。
これは、お互い確信させて頂き、だんだん確信していかなければならん、ということ。信心をしておればです、必ずおかげがいただけるということ。もう必ずよい方にしかならない、ということ。それを日々の体験から、頂いていかなければならん。先日、ある方が、見合いをされた。そう思うて家に行った。なかなか私写真見せてもらったが、なかなか、ちょっと、スマートな人です。背はちょっと小さいばってんが、なかなかその、性質もよかりそうにある。
むこうも、そういう風にこちらを感じられ、こっちもそういう風に感じた。まあ、この人ならば、いってもいい、もうこれなら貰うてもええと、むこうも、思われたのでしょう。仲人通してから、いよいよその返答を求めて見えられた返事を。そしてこちらもいろいろと、あれこれ調べさせて頂きよったら、その給料が安い、ということが分かった。だからあの、そんくらいの金じゃとてもいかんと。例えば福岡辺に住ませてもらうならば、家賃でも、何千円も、1万円もださんならん。一部屋借りたっちゃ。
そげん安かなら、っち言うてこう、二の足を踏む、もう心が、言わば返事をしなければならないのだけれども、返事ができんのです。ね、皆さんどうですか。初めに、お願いをしてからご神意を頂いて、お願いをしてある。双方気に入ったならよかろう、ということだった。やろう、もらおう、と言うことになったらです、それでもよかろう、と。ところがその、ただ税金、税金じゃないその、税金なら安かほうがよかつばってんね(笑)。その、給料のほうが安かっち言いよっちゃった。
それがそのことをです、また神様にお願いさせていただきよりましたら、ちょうど私の様なその、ぐるぐる坊主を頂いた。ご理解にね、相手がその、例えば坊主であったっちゃええじゃないか、ということ。坊主がなぁんももたん、っち言うこと。ぼんぼら坊主っち言うでしょう、なぁんもなかこつを。もうそれこそ相手がぼんぼら坊主でもよいじゃないか、とこういうこと。
必ず、信心をしていきよればね、これが、ふさふさする、伸びてくるようになるて。どげなもんでん例えば島田でん丸曲じゃろうが自分の思うごと結い上げられる時期が必ず来る。信心させていただいおればよ。日ごろ信心いただいとるもんじゃから、もうそれを頂いたとたんに腹が決まった。もう先生分かりきっとることなんですけれども、あくる日参ってきてからですね、もう娘はそれ頂いたばっかりでもう、だいたいが気に入らんとじゃけん。
はぁほんにそうだった、と思うた。例え相手がぼんぼら坊主じゃったっちゃどうあるか、病人だっちゃたどうあるか。おかげさえ頂いていけばいいじゃないか。どうもいろいろしよったところが病気、相手がちった病気のごたる。こげん時はやはり二の足を踏むもんね、やっぱり健康の方がよかもん。どんなに健康だってですよ。これ私の知っておる善導寺の(長原?)っていう、今はございませんけど、酒屋さんがあったんです。
奥さんが、あのう、ちょっと胸の病気で、そのう、静養に行かれた。もう何年間、ですから、奥さんの方もその、あとでもうてください、というわけで、あとからもろうた奥さんもですね、体操の先生じゃった。はぁもう、(笑)もうそれこそもう、筋肉たくましい隆々としてござる。(笑)そればってんあなた、来なさってからコロッと死なしゃったげな(笑)。そしてから、その、胸の、具合の悪かっち言うてから、( ? )助かっておる。そういうもんじゃ。
だから問題はです、信心がなかなら知らんよ。けれども椛目にご縁を頂いて、縁をだんだん生かしていくと言うことにです、思い定まったらです、もう絶対おかげになる、というです、確信を、しかもなら、3年なら3年、5年なら5年、10年なら10年と、信心を続けていくうちに、いよいよその確信ができてくるということ。信心とは私はそういう、生活がほんとのものになっていくことだと私は思うんです。
今日親教会で1日いつも共例会です、お月次祭のあとが。あっちの信徒会長さんがなかなかその、私と違うて口があんまりまめらんほうです。今日20人ぐらいこうお参りがあっとった。他は私と関さんとそれから熊谷さんとおかげを頂いた。それでその今日はこれ、ほうら私も言い損ないよる(笑)今日は共例会ですけんでどうぞそのお話して下さい、っちいうごたるふうでその、言うて思いよるごたるごたるふうですもん。
それでちょいと思いだしなさらん、共例会が思いだしなさらんとじゃん。今日、恒例のというたぎり、なぁん言いなさらんですもん。もうこっちからもう云おうごたる( ? )ござるとじゃん。そしたら皆どう云いなさったと思うですか、「これから恒例の、アレばします。」っち仰った(大笑)。しかしこれで通じるからね。問題は、相手に感じさせればよかっちゃけん。「ならそればしましょう。」っち、かてっぽはそれに合わせればよかっちゃけん、ほんなこっですよ。
(熊谷さん?)やら、関さんも行っちゃったじゃけん。お話してから、お話したわけじゃないけれど岸先生がお話されました。先日からある教会の大祭におかげを頂いた。ある先生のお説教を、話されました。信心生活ということについて、じゃない日に日に生きるが信心なり、と言うそのお説教を頂いてこらっしゃった。私ほんとにですね、先生の話聞くたんびに思うんです、もう、実にその、深い、話が。金光教的、勉強してますから、同時に修行をしておられますから。
その、頂いたお話をまた、自分流にですね、説明を加えて話をされましたが、ほんとにそうだと私は思う。日に日に生きるが信心だということ。などういう風に生きていくことが、信心か、ということ。ただ今私が申しますように、目に青葉山ほととぎすですかね、目に青葉あれです(笑)ね、そういうそういう生活が信心生活なんです、あれです(笑)。どうですかそのその、あげな生活はですたいほんとに皆さんがね、心に抱かにゃいかんです。ところがどっこい、問屋はそうとばっかり卸さないということ。
俺にあてつけていうたばいねというふうに聞こえてきたり。もうとにかく、人間と言うものは、もうどうにも仕方がない。そげなんば先においてから、っち言うごたるもんでも、見苦しい。今日私あの、ちょうど杉山さんが何か請負士の方の紹介したところから見えられた、電気の。私は、ここんところの、ここの何か電気のあの、これが取れとるとですたいね。ここの上が取れとる。
中にはネジがいっぱい、こうついとるですもんネ。もうそれば見よると私は何か、虫がいっぱいこうついとるごたるふうに、見えてですもう見るまいっち思うてもいかんとじゃん。大体が神経質なもんですからですね、もうすぐ虫ば連想するとですたいね。それを見てから。もうぐちょぐちょこう、虫がひっついとるごつ見えるとじゃん。もう私はどげでんよかばってんあれば買うとながめんでよかし、するとあっという間に持ってきてからここにはめて、どっからか持ってきとる。
だからですね例えばそういうふうに物事が見えて来る人があるです、何でんかんでん。もう人に何かよか着物着とったちゃ腹が立つっちいう人がある。ほんなこっですよはぁもう儲け出しゃったげなっち言うたら、もう手に一杯泡が立つるとがおる。隣が儲け出すこっちんもんな倉たてよる。かてっぽ隣が倉立てるならこっちんもんな腹立つると言う様に。しかし人間の心の中にはそういう心があるんですよお互いの心の中に。
だからそういう心に、やはり取り組まなければいけんと思うんですよね。はぁあの人儲け出しやるさせ、儲け出しござると、ほんとにありがたいことだと言うて、喜べれる様な心になる。そういう心を私どもの心の中に、見つけださにゃかいかん。もう人間じゃけ、そんくらいのこと当たり前、というようなことでは、今日私が申しますような、いわゆる、あげなおかげは頂かれん。
そういう本気で取り組むということがです、もしそれができんでもです、できんでも、そういうことに本気で取り組むということを、神様がお喜びたもうと。その喜びが、私の心の中に返ってくる。先日、2、3日前でした。お風呂入っとった。もう、ちょっと遅かったです。もうその、薄暗い。私はもうその、点ければならんとこにはもう、どげな百燭光いくつ並べて点けたっちゃよか、っちいう流儀なんです、私。
けれどもね、必要のないっちいうときにはもう、それこそ、それこそ、五燭光でも、いきなり点けとっちゃならん、というのが、私の、その考え方なんですね。ですから私はもう、その夕方なんか、あの、ちっと薄暗かったっちゃ中で電気を点けない。そしたら家内が外からカチッっち点けてくれました。今までの私はそういう時にですね、せっかく修行しよるとに、というわけでもないですけど、勿体ない、なんで点けるかっち、こっちから言うごたる気持がそこに起こってくるんです。
なら私の心の中に。まだ電気がどうしているか、っち消やせちゆうごたる風に云うとですけれどもですね、家内がその電気を点けてくれた、ということが有難かったんですよ。私どもが15年前です、とてもお風呂にでも入ろうとは、いっちょん思わなかったです、私ほんとに。もう一生お風呂入らんでもそれはもう、朝の水行させてもらいますからね。部屋でもそうなんです。
私の4畳半の部屋に、畳も敷いてはない、雨が降れば漏る、そういう部屋から一歩でも、もっとよい部屋に、移ろうという思いはさらさらなかったです、私の気持の中には、今でも同じこと。あの時分はやっぱ、なんしとるとですね例えば、翌日、篠原さんあたりにはその、お風呂をお世話になったもんです。人に施すとですから、わざわざ風呂場に電気がとってあるわけじゃないです。
今頃今はもう、内風呂にしてありますけれども、外に、そこんところにお風呂があった、もうすぐ裏に。言うならば、もう、皆さん、しまい風呂なんだ。濁っとるか、白なっとるそりゃわからんだけれどです、もうそれが有難くてたまらなかった。電気と言やあ、向こうの方の、お障子がこう開けてある、そこからもれてくるぐらいの明かりだった。もうそれで、ほんとに汗を流させて頂くということがです、風呂を頂けれるということが、ほんとに有難かった。
そんなこと思うたらですとても、電気のついとらんのなんて、ほんとに思わないんですよね私。人間の心の中に様々に変わってくる、段々儲けださせて頂くと昔のことを忘れれる。そして贅沢言うようになる。ところが信心させて頂いておると、それがもう昔のことがますます、いよいよ有難くなってる。食べ物の事だって、お風呂の事だって同じこと。勿体ない、もういよいよ勿体ないが強うなってくる。ね、その勿体ないがつよなってくるという生活なかにゃいかん。
家内が電気を点けてくれた、明るい中でお風呂に入らせて頂いて、有難いなぁ、とこう、思わせていただいておったらです、私の心眼にいただきますことがです、これちょっと、皆さん理解がしにくいかもしれませんから、まあ御理解だけ申しますとですね、自分の心の中にです、信心を頂いておるということが有難いなぁという心と、自分の家にも身にも、こんなにもめぐりが大きい、というめぐりの自覚。
ですからいつも絶えず私の心の中に、でもなくてもこれだけ巡りの深い私だもの、私の家なんだからこれ以上にです、巡りを積む様な事があっちゃならん、という巡りの自覚をいつも持っとかなければいけない心の中に。信心を頂かせて頂いておるということが有難い。同時にね、神様が求めたもうところの修行ならばです、ね、辞するだんではない、それを合掌して有難く受けていくという事の、修行精神が心の中になからなければ、これが三つの紋卍どもえのように、自分の心の中になかならければいけないということ。いや今それがお前の心の中にあるから。
心の中ではです、例えば修行させて頂よっても、つける事いらん所にと言うたらもうこの修行の心は消えてしまう。そうでしょうが些細なことなんです、けれどもそこがなかなかその難しいところ、デリケートなところ。ね、そういう状態をです私の心の中に信心を頂いておると言うことが有難いという心と、巡りの自覚と神様が求めたもう修行ならばです。自然が求める修行ならばです。
あえて辞することはない、いつでも合掌して受けさせて頂くという修行の精神。元気な心と言うものが、私の心の中にある限りです、どのようなものを見ても聞いても、有難いな、ということになる、ということ。してみるとこの三つの心を私どもの心の中にいつも、頂いておくことに焦点を、置かなければならない、ということになるですね。昨日の、朝のご理解にです、私御神前に出らせていただいてから、思うた。
今椛目に御神縁を頂いておる方達は、もう容易ならない時である。椛目あげての言わば修行に取り組んでおるときである。お互いのそれぞれの信心の度合いによって、その信心の、それが違うにいたしましてもです、どういうところに焦点を置いて、おかげを頂いておられるだろうかと、何事にも焦点がいるのだ。沢山椛目にお参りはしてくるけれども、そう焦点がただ、病気が治りたいばっかりに、このことお願いするばっかりに、いやこの事お伺いすることのためにだけ、お参りをしてくる人も沢山あるけれども。
こと椛目、今度の例えば御造営なら御造営というようなことに焦点を置いて、皆さんが信心をなさっておるならばです、焦点が御造営ならば、どういう状態にならせていただいたならば、どういう心持にならせていただいたならば、そのおかげがいただけるかというところを、極めていかなければならん。そこんところ私が思わせていただきよりましたら、頂きますことなんです。
これは長崎の、わらべ歌、子供の歌だそうです、昔からある「赤かとばい、金巾ばい、唐人さんからもろうたとばい」と言う歌があるそうです。赤かとばい、赤いとだということです。金巾ばい、こういうのがその、金巾・・・。私金巾て薄いもんかと・・・。これが有名な金巾だそうです。これが非常に珍重がられたんですね、その時代。これを頂いた、これを説明することが書いちゃった。それを頂くんですね。
皆さん椛目の御理解いただいとるから分かるでしょう。赤かとばい、金巾ばい、唐人さんからもろうたとばい、という、こういうところに焦点を置いて信心を進めていけという、ご理解を頂いた。ね、もちろん、赤かとばい、と言うことは熱情と言うことだろうと私は思う。信心の熱情なんだ。金巾ばいこれはカネもやっぱ、金。キンもやはり金。キンいくらって言うでしょう。いうカネ、カネという時なんだ。
ちょっとおかしいですね、今の椛目にカネカネ、もう金が必要な時なんだと。ちょっと信心には、不釣合いなような感じがするけれども、今度の、為の金はね、普通の言うのと違った金なんだ。どういうふうに違ったかと言うとですたい、もう命にも匹敵する様な金なんだ。一番大事にしとるものは皆さん、やはりなんて言ったってお金なんですよね。お金、って言うことはお米、って言うことにも通じるんですよ。着物というのにでも通じるんです。金があればお米も買えるでしょう、着物も着て、買えるでしょう。
その着物ならです、例えばお米やらっていうのは人間の命なんだと。これなしには人間は生きていかれないのだ。ね、言うならばお米がです、光ならばその光がです、例えば(あおら?)がきれたといたしますと、もうその光は消えてしまわなければならない。人間の命もそうである。いくらに威張っとったところでです、なぁんも食べんなり着らんなりでおったんでは、やはり、もう命は絶えなければならない。
お米のおかげで、お米のおかげで命があるのだと。してみるとお米そのものが命であり、お金そのものが命だということが分かるでしょう。ですから皆さんが今度はおかげ頂きたいおかげ頂きたいと今思うておられる、そのことをです、皆さんの言わば命にも匹敵する様なものでなかなければならない、そういう内容のものでなかなければならない、ということなんだ。命を奉るのである、命を捧げるのである。
その、一番大事な命を捧げるものですから、神様が、お聞き届け下さるはずはない、お喜び下さるはずはないのです。( ? )楽しいごとある。問題は腹が決まったからだとこういうわけなんです。昨日おとといでした、ある方がここでお届けをされる。あそこに箱にあるとにその自分の思いを入れんならん。いくらいくらお供えさせてもらうっちいう。もう家族中例えばそこは、お父さんもお母さんも、それから娘も息子も4人。青年部女子青年部、婦人部壮年部じゃ。
だけんお前、いくら出そうち思いよるか、あんたいくら出そうと思いよるの、と。ね、もうそういうことで一つも決まらん。したら息子さんが言わしゃった、もうあんたどんばっかりは、人がいくら出そうがどうあんの。自分が一生懸命のもん、自分でお供えするとが、人の顔色を見なければ、人がいくらするけんいくら、ちいうのでどうするか。腹決めなさいと。と言わせてから、初めて気がつかせて頂いたとこういうこと。腹が決まらなければいけん。
家を建てるでもそうでしょうが、ここに、お座敷を作る、ここに炊事場を作ると、決まらなければです、電気屋さんでも電気の工事をすることができないでしょう。水道屋さんでも炊事場の、炊事の、水道の配線をすることができないでしょうが。神様はおかげを下さろうとしてるのです。こちらの腹が決まらんことには、おかげにゃならんということ。しかもその腹が決まると言うことがです。
命に匹敵するものでなかなければ、ならないということ。皆さんそのくらいのね、はずみがなかならければ、今度の、御造営の御成就は難しいです。思うとるだけなら誰でも思うとる。百万円の宝くじでも当たるならそれをそのまま、お供えさせてよかとさえ思うとる。けどそういうようなものでは、例え宝くじが当たってお供えできたところでです、神様がお喜びなさるだろうか。それは、あなたの命じゃないもの。
よくよく考えさせていただいておるとです、唐人さんからもろうたとばい、ということは、どういうようなことかと、特別そうした、特別な臨時収入がなかなければ、と言うようなことでもない。ほんとの、心の芽が信心の芽が、お道風に開けてくることなんだ。考えて見れば、あれもこれも、この財産も、全部、神様からもろうたとばい、というおかげになってこなければだめだ。
ほんと神様の恩物であり、神様からお預かり物であり、神様からもろうたのである、という自覚に立たなければいけない。いやこれだけは先生信心する前からあたし働きよったんですけん。その働きはどこからくるのか、信心しよらん者に神様はおかげをやっちゃない、ということはない。世界中の氏子におかげはやってあると仰る。私が働きだしたと言うその基の、働きはどこの誰が持ってきてくれたのかということ。ね、
そこに立って初めて真の信心生活ができるのであり、・・・ね。日に日に生きるが信心というのは、そういうような尊いことに取り組ませてもらって、そこに一つの生きがいを生み出させてもらい、しかもその生き調子というものが目に青葉であり、ね。味には初鰹であり、耳にはほととぎすの声を聞くような、思いを頂かせていただきながらそういう思いをいよいよ、あか抜けしたものに育て上げていくということがです。
信心だと。いつも3月花の頃、と言うような、結構なおかげを頂かせてもらうところの、おかげ。そういうようなことを私は思うのです。何を見ても何を食べても、何を聞いても有難い。有難いなぁ、心を汚すことがない。家内からおごられよったっちゃ、有難いなぁといった、有難いなぁっち言うわけないばってん、もう何とはなしに腹が立つだんじゃなか。もうほんとに、それこそもう、ちょいとなんとんかんとん言えんごたる、一つのその、よい仲というのが、素晴らしい。ね、
そういうような心の状態がです、いよいよ、おかげにおかげの、花が咲いていくような、いわゆる、徳にもなっていく様な、おかげになっていくと私は思うのです。私今日の、皆さんに聞いていただいた御理解をです、どういうことを思ってそこを思わせていただいたら、ほんとに、あの、鰹に若葉に、そして、ほととぎすの声にです、信心生活をそのまま、頂けれるようなおかげを、頂かせてもろうたら有難い。
それにはどういう、信心をさせて頂いたら良いだろうかと。そのことを話させて頂こうと思うたら、お前がおかげを受けておることを話せと、神様が伝えて下さった。ですから言うならば、私が、これまでそばで聞いてきた話じゃない。私のもの、まだ私はそれを信じておる。そのことを、皆さんに今晩は、聞いていただいたようなわけでございます。
おかげを頂きましてありがとうございました。